パン屋はなぜバターを選ぶのか|風味を決める“溶け方と香り”の科学
パンの味を決定づける最も大きな要素のひとつが油脂である。
油脂はパン生地を柔らかくし、香りを引き出し、焼き色を与える。
そして多くのパン屋が扱う油脂には、バターとマーガリンという二つの選択肢がある。
どちらもパン作りに使われるが、職人たちはしばしばバターに強いこだわりを持つ。
では、なぜパン屋はバターを選ぶのだろうか。
その理由を単なる「風味が良いから」という一言で片づけるのは簡単だが、
実際にはもっと深く、もっと科学的な背景がある。
この記事では、香りと溶け方、熱変化、層の形成といった現場の視点を通して
“バターを選ぶ本当の理由”を掘り下げていく。

バターの香りは偶然生まれたものではなく、科学的な必然である
バターが持つ独特の芳香は、乳脂肪に含まれるラクトンという香気成分によって生まれる。
ラクトンは乳由来の甘く濃厚な香りを作る化合物で、加熱することでさらに強く香りが立つ。
クロワッサンをオーブンから取り出すとき、
店内の空気が一瞬でバター色に染まったかのような感覚になるのは、
このラクトンとメイラード反応が同時に起きるためだ。
焼けた生地の香ばしさと乳脂肪の甘い香りが合わさり、
人の脳に「焼きたての幸福感」を届けている。
マーガリンも香料を使うことで似た香りを再現できるが、
乳脂肪から生まれる立体的で複雑な香りには届かない。
香りの層が薄いというより、“響き方が違う”のである。
パン屋は香りの変化に敏感だ。
深夜の工房でバターの香りが立ち始めると、
それだけで焼き上がりのイメージが広がる。
バターは職人の五感すべてを刺激する素材なのだ。
口どけを決める“融点の差”が、バターの最大の武器
バターとマーガリンは融点が違う。
この差が、パンの口どけに決定的な違いを生む。
バターの融点は約30〜35℃で、人の体温で自然に溶ける。
つまり、口の中で一瞬で広がる香りとコクは、
乳脂肪が持つ物理的な性質そのものなのだ。
一方、マーガリンは植物油脂を乳化して固めたものなので、
融点がやや高く、溶け方もやや遅い。
軽い食べ口を生むには良いが、
バターが与える“溶けた瞬間の爆発的な香り”は再現できない。
パン屋がバターを選ぶ理由のひとつは、
この溶け方による香りの立ち上がりが
パンそのものの印象を劇的に豊かにしてくれるからである。
層を作るとき、バターは生地と手をつなぎすぎない
バターは生地との相性が良い。
相性が良いと言うと曖昧に聞こえるが、具体的には「混ざりすぎない」という意味がある。
特にクロワッサンやデニッシュのような層を作るパンでは、
油脂が溶けすぎると層が消えてしまう。
バターは温度の変化に素直で、
冷えれば硬く、温まればはっきりと溶ける。
この性質が“層の形成”に非常に向いている。
折り込んだときに層が整い、焼成時に逃げる蒸気が
生地を自然に押し上げ、軽くザクッとした食感を生む。
マーガリンは乳化によって扱いやすい油脂に設計されているため、
層の形成にも使えるが、溶け方が均質すぎるため
味わいの立体感が出にくいことがある。
もちろん、マーガリンを選ぶ職人もいる。
軽さを出したい場合や、バターの香りを抑えたい場合には理にかなう。
しかし、リッチな香りと食感を求めるとき、
職人の多くは自然とバターを選ぶ。
意外な事実:マーガリンは安全性の面で問題がない
ここでひとつ重要な話をしておきたい。
マーガリンは長年「身体に悪い」と言われてきた。
その理由はトランス脂肪酸である。
だが、これは過去の話だ。
日本では2020年以降、主要メーカーが製法を見直し、
現在のマーガリンに含まれるトランス脂肪酸は国際基準で見ても極めて低い。
健康上の問題を心配する必要は、ほぼなくなったと言える。
つまり、マーガリンは「身体に悪い油脂」ではない。
バターとは目的が違う料理用油脂なのであり、
用途が異なるだけで優劣の問題ではない。
誤解を正しておくと、
マーガリンにはマーガリンの良さがある。
ただ、職人たちが“バターを選ぶ理由”とはまた別である。
パン屋は素材を「味が育つ方向性」で選んでいる
パンの魅力は味の重層性にある。
焼きたての香り、生地の甘み、食感の変化。
その一つひとつに油脂が関わっている。
バターは、時間の経過と共に風味が丸くなり、香りも変化する。
焼きたての瞬間から冷めたあとまで、味の表情が変わり続ける。
これを“味が育つ”と表現する職人もいる。
一方マーガリンは、香りと食感が比較的安定している。
「軽さ」を出したいパンや焼き込みの少ない菓子などに向いている。
どちらも良い。
ただ、パンに“物語”を持たせたいとき、
味が変化していくバターの方が、
職人にとっては扱いがいがあるというだけなのだ。
結論:バターは味を立体化する素材、マーガリンは設計できる素材
バターは、香りと食感が立体的で“パンに奥行きを与える油脂”。
マーガリンは、軽さや扱いやすさを目的に設計された“機能的な油脂”。
どちらが優れているわけでもない。
ただ、パン屋が求める「香り」「層」「溶け方」「味の成長」において、
バターが持つ性質が特に適しているため、
職人は自然とバターを選ぶことが多い。
現代のマーガリンは科学的に安全で、用途によっては非常に合理的な素材だ。
けれど、パンという“生き物”と向き合うとき、
バターが生み出す不規則で豊かな香りは、
パン屋にとってかけがえのない魅力なのである。


