はじめに — なぜ今「国産小麦信仰」への再考が必要か
「国産小麦を使っています」という言葉は、
パン屋や消費者にとって安全性や誠実さの象徴になりがちだ。
特に、地産地消や“国産=信頼”というイメージが強い今日、
「国産小麦=良質なパンのための最善の選択」と捉えられることが多い。
しかし、製パンを本業とする者の目から見れば、この単純な信仰は、
実際のパンの品質や安定性、あるいは合理性という観点では、
かなりの「思い込み」――いや、「幻想」になりうる。
この記事では、粉の性質・科学的データ・実用性という三つの視点から、その幻想の構造を解体する。
結論から言えば、「国産小麦=無条件で善」という考えは、製パンという技術文脈では過剰単純化。
むしろ輸入小麦(または用途に応じた粉選び)が
合理的・現実的な選択になることは、少なくない。
以降、その理由を説明する。

国産小麦の“弱さ”:タンパク質・グルテン量の差
パンを膨らませ、ふんわりとした食感を与えるために不可欠なのが、
水を加えて捏ねたときに生成される「グルテン」だ。
小麦粉中のタンパク質(主にグリアジンとグルテニン)が、
水と結びつき、粘着性と弾力性を併せ持つグルテンとなる。
これがパンの気泡を保持し、発酵・焼成でふくらみを生む。 オリーブひとまわし+2プロフーズ+2
だが、複数の分析で、国産小麦は総じて輸入小麦より
「タンパク質含有量が低い/グルテン生成に必要な質と量が十分でない」傾向があると
報告されている。 こむぎプラス|自家製酵母で作るおうちパンレシピ+2オリーブひとまわし+2
たとえば、ある比較研究では、国産小麦粉を使った場合、
焼き上がりのパンの「ボリューム(膨らみ)」が輸入小麦粉に比べ顕著に小さく、
粉の水吸収性や生地の安定性も劣るとされた。 J-Stage+1
要するに、「国産小麦=パンに最適」は、少なくとも“膨らみ”や“ふっくら感”というパンの基本性能においては、(少なくとも一般論としては)成り立たない。
この点は、あなたが扱うような「キューブパン」においても、無視できない。
キューブ型パンは特に「断面の気泡構造」「生地の伸展性」「焼き上げ時の形状維持」が求められる。そこにグルテンが弱い粉を使えば、理想のフォルムや食感が得られにくく、
ばらつきや不安定さが生じやすい。
国産小麦信仰の成立背景:農業事情と心理
なぜ「国産=良質」というイメージが強いのか。その背景には以下のような事情がある:
- 戦後の輸入小麦依存と、小麦自給への政策的な悲願。農地政策や国内農業の再構築の歴史が、
「国産小麦=日本の誇り」「安心・安全」のイメージ形成に関与。 The Tokyo Foundation+1 - ポストハーベスト農薬(収穫後の防カビ処理など)への不安。特に輸入小麦に対し、「残留農薬」「海外の農薬事情」「化学肥料依存」といったイメージが付きやすい。これにより、消費者は「国産小麦なら安心」と単純に信じやすい。 ベーカリスタ株式会社+1
- 食の安全と地産地消、エシカル消費の文脈。「地元を支える」「国内生産を守る」「フードマイレージを減らす」といった社会的価値の重視。これが“心情的価値”を生み出す。
これらは「心理的効用」を生み出す。
人々は安心感、アイデンティティ、社会貢献感を感じられる。
しかし、それは「技術的合理性」や「製パンとしての最適性」とは必ずしも一致しない。
ここに、“国産小麦信仰”の危うさがある。
健康・安全性という論点も過信できない
国産小麦の支持者は「安全・健康」というイメージで語ることが多い。
しかし、科学的には以下のような注意点がある。
- アレルギー・グルテン感受性
小麦には千を超えるタンパク質が含まれており、その一部がアレルゲンや、過敏反応誘発物質となることが知られている。 millingandgrain.com+2科学協会+2
研究によれば、ある国産/輸入小麦粉を比較した際、国産粉の方が高分子グルテン(high-molecular-weight glutenin)やオメガ-グリアジンの含有が低いとの結果が報告されている。つまり、一部のアレルギー誘発物質は減っている可能性がある。 pure.korea.ac.kr+1
しかし、これは「国産小麦=アレルギー安全」という保証ではない。そもそも小麦のアレルギー・グルテン感受性は、品種や加工、個人差に依存する。近年では、遺伝子編集で「低免疫性グルテン」を目指す研究もあるほどだ。 Frontiers+1 - 栄養価の過信は無意味
粉の灰分(ミネラル成分)や胚芽・外皮の有無で多少の違いはあれど、一般的な製パン用小麦粉(パン用強力粉・準強力粉等)は、基本的に炭水化物が主体。たんぱく質量自体も、全粒粉でない限り大きな栄養的恩恵は期待できない。 一般財団法人 製粉振興会+2ウィキペディア+2
また、全粒粉など胚芽・外皮を含む粉を使う場合、「フィチン酸」のような成分がカルシウムなどミネラルの吸収を妨げる可能性もある。 一般財団法人 製粉振興会
つまり、「国産小麦=栄養的に優」という主張は、使用する粉の種類・精製度・加工によって大きく変わる。
したがって、「国産=安心・健康」という単純な図式は、
少なくとも“栄養安全性”“アレルギー安全性”の観点では科学的な裏付けとしては脆弱だ。
製パン=ビジネスの現実:安定性・コスト・効率性
製パンをビジネスと捉えた場合、安定した品質と効率性は収益性に直結する。
国産小麦信仰に固執すると、次のような問題が起きやすい:
- 粉のロットや品種によるばらつき:国産小麦は栽培地・気候・収穫年によって品質がぶれやすく、グルテン量・吸水性・焼き上がりの安定性にムラが出やすい。実際、「国産小麦の製パン性はまだ十分に標準化されていない」とする製粉分析もある。 koreascience.or.kr+1
- 成形の難しさ/焼き上がりの不均一:特に「キューブパン」のような形状安定が重要なパンでは、粉のグルテン力の弱さが致命的。焼き上がりの高さ、断面の気泡構造、食感などが安定しにくい。
- コストと供給のボトルネック:国内で十分な量・安定した粉を確保するのは難易度が高く、輸入粉のような単価・供給安定性を再現するにはコストや人的コストがかさむ。
つまり、「国産小麦使用」をうたい文句とするのは、ブランディングには使えるかもしれないが、製パンという“ものづくり&供給”の実務においては、不利が多い。
再考:粉選びは目的と合理性で。国産信仰からの脱却を
まとめると、次のような結論になる。
- 国産小麦が持つ「地産地消」「安全・安心」「ローカル性」といった心理的価値は理解できる。
- しかし、パンという“加工食品”を安定的に、美味しく、効率よく作るのであれば、
粉の性質――特にグルテン量・水分吸収性・製パン適性――を基準に選ぶべきで、
「国産かどうか」は二次的な判断材料。 - 「国産=良質」という信仰は、製パンにおける合理性や効率性、
品質安定性という現実を見落とす原因になりうる。 - 特に、あなたが取り扱う「キューブパン」のようなフォーマットでは、
粉の性質が結果に直結するので、“国産信仰”に固執するのはリスク。
だからこそ、粉選びやパンづくりでは「用途・目的・品質基準」に応じた“実用最適粉”を採用するべきだ。国産小麦にこだわるなら、その意味を明確にし、できるだけ製パンに向いた品種・配合・加工技術でリスクを補う。
「国産小麦を使っています」――それは消費者にとって耳障りが良いかもしれない。
でも、製パンという技術と商売の視点では、それだけでは不十分だと感じています。
